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ブランドストーリー「第一話」
1985 VICTORY WETSUITS
俺の生まれは東京都葛飾区。
小学校に上がるタイミングで、お袋の実家でもある茨城県日立市に家族で引っ越しをした。
日立市は海と街がすごく近く、自然豊かな街。
高校入学してすぐ、仲間とサーフィンをしようと言う事になり日立駅のすぐ下のポイント(黒潮)に拠点を置くブラックタイドと言うサーフチームに話をしに行く事に。
髭を生やし真っ黒に日焼けしたチームリーダーの方と話をした。
サーフィンしたいならウチのチームに入ればいい。
いつもここでやってるから。
俺たちは「よろしくお願いします」と挨拶し、チームステッカーをもらった。
これが俺のサーフィン人生の始まり。
高校卒業するまでの3年間、ほぼ毎日海に入っていた。
高校卒業後、俺はもっとサーフィンを知りたいと神奈川県は茅ヶ崎市に拠点を移した。
18歳で一人暮らしを始めた。
まずは仕事探し。
求人募集のチラシを眺めていると、「海好き集まれ!」のキャッチコピーに目が行った。
その会社は当時日本一を誇るウェットスーツメーカー「VICTORY WETSUITS」
サーファーなら誰もが知るブランド。
まずは面接に行ってみようと履歴書を書き、指定された日に会社に出向いた。
応接間に通されると、工場長が現れた。
色々話しをしたが、最終的にネックになったのが時給。
募集の金額が550円だった。
550円の時給では家賃を払って食費、電気、ガスを払ったら無くなってしまう。
そんな話を工場長にした所「頑張ってくれたら俺がすぐ時給を上げてやる」そう言ってくれた。
この人を信じて、少しやってみるか!
ここから俺のウェット人生が始まる。
当時のサーフィン業界はサーフィンブームもあり、信じられないほど忙しかった。
俺と同じタイミングでバイトが20名ほど入社した。
朝の9時から夕方の6時が定時。
定時で上がれる事は無く、夜の9時10時11時はざら。
その内夜中の12時を越える日もあった。
当時は注文が生産数を大きく越え、全く仕事が追いつかなかった。
ハードな仕事量に徐々にアルバイト達は辞めていった。
沢山いたアルバイトだが、俺以外ほとんど辞めてしまった。
そのしわよせが俺に降りかかる。
各部署で数人のチームで作業していた。
しかしチームでは無く一人の部署があった。
それが型紙。
ビクトリーの型紙師は一人だけだった。
都内のアパレル学校でパターンを勉強し、ビクトリーの型紙師になった。
当時とても忙しく一人で終わる仕事量では無い。
型紙で納期が遅れる事もしばしば。
工場長が型紙師に「一人では厳しいから誰か下を作らないか?」と伝えるとその型紙師は「どれだけのお金をかけてこの技術を習得したと思っているのですか?他人に教える事は出来ません」と言った。
徐々に仕事が激化し、型紙師の方から誰かに教えても良いと言ってくれた。
そこで選ばれたのが俺。
それからは通常の仕事と併用して型紙の勉強も始まった。
型紙の考え方、人体、関節、ダーツの取り方、デザイン線の引き方。
フルスーツ、シーガル、長袖スプリング、半袖スプリング、ロングジョン、ショートジョン、タッパー、ベスト、レディースの胸の出し方、ジャージスーツ、ラバースーツ。
覚える事が無限にあり、組み合わせると何百パターンにもなる。
気が遠くなる型紙の勉強。
基本を覚えたら、今度はデザイン。
平面に絵を描くのと、立体の体にデザインを入れるのとでは全然違う。
そして型紙の良し悪しは着た時の調子の良さ。
カーブの引き方、ダーツの取り方、体型のアウトライン。
細かな気配りと職人の技量が調子の良いスーツを生む。
とにかく数をこなさないと見えて来ない領域。
来る日も来る日も型紙を切りチェックしてもらう。
毎日ダメ出しの連続。
やっとOKが出て単純なデザインのスーツからお客様の型紙を切る事を許された。
型紙は各メーカー門外不出。
親族か、よっぽど信頼おける人物にしかその技術を教える事が無かった。
型紙を知ればメーカーになれると言われていた。
俺はとてもラッキーだったと思う。
毎日忙しい日々が続いていた。
気がつけば俺も工場長の右腕まで上り詰め、パートのおばさん達からもかなりの信頼を得られるようになっていた。
そんなある日、会社が吸収合併される!?…そんな話が持ち上がった。
当時工場は茅ヶ崎の下町屋と言う場所にあったが、ここは無くなると言う話だった。
ビクトリーはアポロスポーツに吸収され、勤務地は海老名になると。
アポロスポーツはダイビングメーカー。
何故アポロスポーツがビクトリーを…
続く。
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